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雑学
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いろいろな雑学を披露できる場です。
また知識を深める場でもあります。

たとえば・・・
「大刀」「太刀」ってなに?
「打刀」ってなに?
具足とかについて知りたい
城の防衛設備について教えてほしい
「官位」ってなに?どんな官位があるの?
「山陰道」とか「出羽」とかってどういうものなの?
などなど

疑問に答えてくれる人が現れることを期待して待ちましょう。


各城・各装備に関する個別的な雑学は城娘の個別ページでお願いします。
城娘装備

武具について Edit

 平安時代に弓の名手で知られた源為朝は、弓を支える左手が矢を引き絞る右手より12センチ長かったとも言われます。近藤好和氏の一連の著作によると、鎌倉時代までは騎馬武者はもっぱら弓矢で戦っていて、対抗策として馬を先に攻撃されるようになったので、南北朝のころから馬を降りて射撃したり、刀槍で戦ったりするようになったのだそうです。


 だから馬上で使う長い太刀は、室町時代以降に一般的になる短めで徒歩戦闘用の打刀に比べると、兵器として実際に使うことは少なかったかもしれません。江戸期には「定寸」といって刀の標準的な長さがあり、地方や流儀で多少の差があるようですが2尺3寸~2尺3寸5分(69~70cm)でした。幕末動乱期には長い刀を実戦で試す武士もいて、やはりうまくいかなかったようです。


「三池光世」という刀を開発できますが、これは「正宗」「村正」のように刀工の名前です。先祖が徳川家康から拝領した、葵の紋入りの「三池典太光世」を佩(は)いて活躍するのは、『古着屋総兵衛影始末』シリーズの主人公、大黒屋総兵衛。他にも有名な刀の名前がそのまま使われているものがありますね。


 脇差はもともと本差と対になった言葉で、1本だけ持っていて「脇」差も何もないものですが、江戸時代には武士以外でも護身用の短い刀は所持を許されたためこれらを差して呼ぶことがあり、「脇差」「小太刀」といった言葉の厳密な使い分けは難しいようです。江戸時代に庶民が所持を許されるのは2尺(60cm)未満が目安で、この長さぎりぎりを狙ったものを長脇差と言い、博徒の典型的な持ち物でした。


 太刀や打刀(本差)は両手刀です。ですから片手持ちの小太刀で斬撃を受け止めると力負けします。上記の事情で小太刀での戦闘も江戸時代には研究され、道場もあったのですが、斬撃は受け流し(左から斬りつけられたら、受け止めながら右へステップ)刺突のチャンスをうかがうという、ちょっとスポーツにしづらい動きが基本でした。とはいえ現在でも、全日本銃剣道連盟が短剣道の大会を主催しています。


「一族郎党」という言葉がありますが、領地を持つ武士が一族と奉公人のチームを連れて参戦してくるときは、その中に騎兵と歩兵が混じりあうことになります。大名の権力・財力が増し、大名の雇う足軽部隊が集団戦闘をするようになったのが戦国期の新たな動きで、長柄槍はその代表的な武器でした。長柄槍をひとりで構えても、ふところに飛び込まれればなすすべもありませんが、集団で穂先を上げ下げされると近づくのは容易ではありません。

城について Edit

城を建てる目的 Edit

 例えばコミックス『センゴク一統記』には賤ヶ岳の戦いで両軍が小さな砦を築き合った様子が描かれています。重要な地域を制圧するための城がある一方で、当面の敵と戦う最前線としてだけ価値のある城もありました。墨俣城の実相がどうだったのかは論争がありますが、美濃の斉藤氏が滅亡してしまえば、織田氏にとってここに砦を構える価値は下がってしまったでしょう。逆に備中高松城は毛利氏領の東側にいた同盟者が次々に織田氏についたため、毛利氏の東部防衛ラインに乗ってしまった城です。


 備中高松城は攻めにくい要害の地にありますが、だいたいそうした場所は城下町を発達させにくい不便なところです。統治の拠点としては交通・通商の要衝であるほうがよいわけで、北近江をもらった羽柴秀吉が小谷城を使わず長浜城に拠ったのは有名です。江戸城も徳川家康がもらった関八州ではそうした性格の土地ですね。


 城は何よりも軍事拠点ですが、将兵が生活する場でもあります。だからしばしば「水の手」が攻防の焦点となり、飲料水を絶たれた城は戦闘力をも失ってしまったのです。逆に兵糧と水があれば、包囲を打ち破れない劣勢な兵力でも、籠城することで救援や有利な情勢変化を待ったり、敵戦力を引き付けて他の場所で友軍を有利にしたりすることはできました。


 京都(山城)までを確保した織田氏が丹波や播磨に進出し、はるか西方にいる毛利氏との争いが始まったころでした。すでに尼子氏の月山富田城は毛利氏に落とされており、遺臣たちは織田氏の応援を受けてこの争いに加わっていましたし、石山城の宇喜多氏、三木城の別所氏、鳥取城・鹿野城の山名氏は両者に挟まれてしばしば陣営を変えていました。三木城や鳥取城の籠城戦は、織田氏側が優勢な兵力を送り込む一方で籠城側の兵糧確保が焦点となる展開となりました。城攻めと言いながら、周囲にあった支城を落として兵糧運搬ルートを絶つ地域制圧戦が大きな比重を持っていたわけですが、主城を落として抵抗をやめさせなければ地域制圧が完成しないということでもありました。

城の変遷 Edit

 当初、城は山城が主流でした。あまり手を施さなくても防衛に適していたからです。
しかし戦国時代になると越前 一乗谷城を始めとして多くの城に城下町が形成されます。
この時に山城は平地が少なく城下町が発展しないというデメリットが生じます。
また、山城はどうしても大きさが制限され、大多数の兵を駐留させるのが不可能でした。
 経済面・軍事面両方の機能を備えた城をという事で、戦国中期から平山城が主流となります。
山城に比べ、防衛能力は落ちる為、石垣や新たな防衛施設等でそれを補い、当時普及し始めた鉄砲に対する対策も施されていきました。
 そして戦が少なくなってきた戦国時代後期~江戸時代初期に平城が多く作られました。
防衛技術の向上により、平城でも十分な防衛能力が生まれた事や軍事的中心というより政治的中心としての機能を備える必要がでてきた事などが由来します。

城の防衛設備 Edit

 第一次大戦(1914-1918)では、丘・尾根の上をわざと手薄にして、敵が丘を越えたところを丘の下から一斉射撃する戦法がありました。これは火砲の性能(弾丸の速度など)が上がっていたからできたことで、戦国期の鉄砲では高いところから打ち下ろす方が圧倒的に有利でした。新府城の台詞にある「出構え」のように、高いところを築造・確保してカバーしあうと攻めにくい拠点になりました。なるべく(高いところから)撃てるチャンスを大きくするように、城門への道は曲がりくねったものになり、城門への直接射撃をはばむよう壁が配置されたりしました。
また城内も入り組んだ配置になっており、敵の勢いを減じ、曲がり角などで上から弓や鉄砲で攻撃出来る様に設計されました。(でもあまり下を向く角度が大きいと、鉄砲の玉がコロコロと・・・・・・敵には内緒だよ!)

こういった防衛設計は戦国時代後期の城に多く取り入れられ、特に熊本城は明治時代の西南戦争でその有用性を実証しました。


 また、高いところが有利なら敵は登ろうとしますから、石積みをぴっちりと崩れにくくし、また垂直に近づけるよう努力しました。


 秘密の抜け穴についてはっきりわかっている城はそれほどありません。なにしろ秘密なので仕方がないですね。江戸城から抜け穴を通って西へ抜け、甲府城に向けて逃げる将軍のための時間稼ぎとして、新宿・百人町の鉄砲同心などが配置されていたのだという説がよく歴史雑誌に紹介されています。秘密ですよ。

政治について Edit

官位 Edit

 奈良時代・平安時代に朝廷が中央政府として機能していたころ、現在の日本政府にいろいろな部署があり官僚たちが勤めているように、朝廷の役人にも部署や地位・階級がありました。年2回の定期異動である除目は貴族の大きな関心事でした。宮廷貴族が武士を手なづけるために、また地方での実務を任せるために貴族としての官位を与えていたのが、戦国期になると朝廷・有力貴族に献金して官位をもらったり、勝手に名乗ったりするようになりました。


 例えば織田信長の一族は代々当主が「弾正忠」(従六位)を名乗っていましたが、もともとあまり全国レベルで有力な家ではないので、勝手に名乗っていたのでしょう。足利義昭と一緒に上洛したとき、織田信長は弾正少忠の正式な補任を受け、最終的には正二位右大臣・右近衛大将まで進みました(死ぬ前にそれらを辞し、死んでからさらに追贈がありましたが)。三河国に任ぜられる朝廷官吏の最高位者である三河守の官位を、徳川家康は朝廷から正式に受けましたが、それはちょうど今川家の勢力を三河から追い出したタイミングでした。このように官位の有無は実際の争いにも影響するものでした。


 興味のある人は、Wikipediaで「少弐氏」「武家官位」の項を読んでみるといいでしょう。


「官位」の官は官職、位は位階です。このふたつはだいたい対応関係が決まっていて、朝廷での位階が上がると相応の官職につきましたが、急速に出世したときなど対応が崩れることがありました。ゲームに登場する侍従は従五位下、近衛少将は正五位下が原則でした。足利義昭とともに上洛した織田信長が最初にもらった位階が従五位下、柴田勝家を倒し徳川家康を破った羽柴秀吉がやはり従五位下から官位を始めています。
なお本ゲームには出てこないが従五位下より下にも六位七位もあるが、貴族は従五位の下からである。


 儀式や伺候のために皇居・清涼殿に上がることを許される前提条件が、五位以上の官位を持っていることでした。「殿上人」としてのステータスが戦国大名には重要だったのでしょう。

 官位一覧

大臣・納言・参議 Edit

 平清盛は太政大臣になりましたが、3ヶ月で辞職しました。失脚したのではありません。当時すでに太政大臣の具体的な仕事はほとんどなくなっていて、「太政大臣になったことがある」ことが重要だったのです。ただし、当時すでに長男の平重盛が権大納言まで昇進していましたが。のちに豊臣秀吉は大名たちに官位を大盤振る舞いしたこともあって、差をつけるためか太政大臣に長いこととどまりました。


 左大臣、右大臣、内大臣はこの序列で政府の頂点に立ち、重要会議を主催しました。会議のメンバーとなったのが大納言、中納言、参議といった人たちで、公家の家格は摂政・関白になれる家を筆頭に、大納言までなれる家など細かく決まっていました。その下には弁官、少納言(侍従が兼任)といった書類作りや儀式運営の実務者がついており、参議に昇進したり、昇進後も兼任したりして実務と政治家貴族たちを結びました。


 近衛府は朝廷の警備・護衛を役目とする官衙で、左右の近衛大将は大納言や左大臣が兼任し、中将以下は参議以上へ出世する家の子弟が主に務めました。少し長官が格下で、御所内の区域と門を分担する左右の衛門府、兵衛府があり、武士の名前によくある「左衛門」「右衛門」といった呼称はここから来ています。

五畿七道 Edit

五畿七道とは日本の8つの地域の総称で区分けは以下のとおりです。

現在国名
畿内近畿地方中部山城・大和・河内・和泉(757年に河内から分離)・摂津
東海道東海道地方及び関東地方(北部除く)伊勢・志摩・伊賀・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・相模・甲斐・武蔵・安房・上総・下総・常陸
東山道中部地方中部及び東北地方近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽(712年に越後・陸奥から分離)
北陸道北陸地方若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡
山陽道中国地方南部播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門
山陰道中国地方北部丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・岩見・隠岐
南海道四国地方紀伊・淡路・讃岐・阿波・伊予・土佐
西海道九州地方豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅(713年日向から分離)・対馬・壱岐

*西海道・南海道が「逆じゃね?」と感じた貴方
 貴方の感覚はおそらく正常です。
 何故逆なのかというと、九州(当時は鎮西)は征服されて間もなく、当時の南は四国だったので、結果として九州は「西」になったのです。

国名・都道府県一覧 Edit

 長いので折りたたみ

令制国(律令国) Edit

 尾張国には8つの郡があり、織田信長の時代にはふたつの織田家が4郡ずつを支配していて、織田信長の家はその一方のそのまた家臣という立場でした。信長は親族と争って次々に倒し、尾張全体を支配するようになりますが、こうした「国-郡」は大宝律令などによって定められた統治の仕組み、つまり律令制の一部です。それ以前から「国」という言葉はあったのですが、国や郡の構成が律令によってルールとして決まり、以後長いこと変更されなかったので、令制国(律令国)と呼ばれています。よく国の数を「六十余州」と表現しますが、そのように境界が固定されたわけです。


 郡の役人である郡司はそれぞれその地方に住んで世襲、国の役人である国司は中央から派遣というのが律令制度に基づく統治のコンセプトでした。もともと国司のもとに軍団があったのですが、中央からは源氏、平家と言った貴族系の武士団(武家貴族)があらわれ、国司の最高位者である守(ただし親王任国である常陸、上野、上総は守もあるが名目上親王が守を勤めているため実質介が最高位者であるが決して守がないわけではない)としていろいろな国に赴任し、地方の武士団と関係を結んで、武士が兵権を握るとともに、すっかり貴族から分かれてしまいました。


 鎌倉幕府以降、幕府はそれぞれの国に国司とは別に武士から守護を任命し、戦国大名の中には守護やその下の守護代から興った家がたくさんあります。さすがに戦国期になってから国司が武力をたくわえて大名化した例は事実上ありませんが、飛騨の姉小路家は「代々国司をつとめた貴族の家系が武士に乗っ取られた」珍しい戦国大名です。

一揆 Edit

 武家が団結して集団行為をすることである。(EUを想像するとわかりやすいかもしれない。)
勘違いされがちだが暴動を起こすことは一揆の中の土一揆であり、一揆=暴動ではない。
農作業を放棄(ストライキ)して山へ逃げ込む農民もいる

有名なものは加賀一向一揆や長嶋一向一揆、毛利氏を中心とした安芸国人一揆がある。

城娘のセリフ Edit

殿様 Edit

「殿下」という敬称は古代中国で諸侯(まだ周王朝が王号を独占していた頃の話)に使われた敬称で、のち皇太子などにも使うようになり、律令制度のもとでも一部の皇族に限られました。「殿」という敬称も当初は摂政・関白に限られていたと言いますから、「殿下」に準じた使われ方であったのでしょう。しかしどこの国でも敬称はインフレを起こすもので、「枕草子」にはすでに「大納言殿」「中納言殿」といった表現が見られます。


 平安時代から、本来天皇を指す「御所様」という敬称が高位貴族に降りてきて、「公方(様)」も公権力を行使する側が広く用いるようになり、特に鎌倉幕府の(実権のない)将軍はこの敬称で呼ばれました。また、武家が「屋形(館)」を敬称として使うことも始まりました。


 足利将軍家は自分も公方を称するとともに、「公方」「屋形」の敬称を一族や有力守護に認めました。家格を示す一種の称号となったわけです。「殿様」はそれらの下の敬称として広く使われました。「上様」も天皇などを指す言葉でしたが、徳川家康の家臣が日記の中で最盛期の織田信長を「上様」と表現しており、戦国時代には「殿様のその上の人」というニュアンスで使われることがあったようです。

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • かみだのすけだのなんぞよって感じだからなんか説明追加しとくといいかもね -- 2014-12-13 (土) 03:19:03
  • 五畿七道のとこの*西海道・南海道が「逆じゃね?」と感じた貴方に疑問。
    > 何故逆なのかというと、九州(当時は鎮西)は征服されて間もなく、当時の南は四国だったので、結果として九州は「西」になったのです。

ソースあるの?
紀伊や四国は京から言って南にあるから南海道だと思うんだけど。
仮に九州が南海道になると、京の南にある紀伊や四国が西になるわけで、西を完全に覆ってる九州を西にしないならそっちの方が疑問なんだけど。 -- 2015-01-03 (土) 20:01:51

  • 現存12天守の「国宝」と「重要文化財」の違いとかってどうかな?
    元々は全部国宝で、法律か何かが改定されて重要文化財になり、そのうちの4つが国宝に再指定されたというややこしい事情があったりするのだけど。 -- 2015-01-04 (日) 06:37:01
  • >紀伊や四国は京から言って南にあるから南海道だと思うんだけど。
    に同意。「当時の南は四国」ていう意味がよくわからない。今も昔も四国は南だと思うの…。同じように今も昔も九州は西だと思うの…。ていうか「鎮西」って自分でコメントしているのに、九州を本当なら南の方が正しいとするのもよくわからないの…。何か出典があるなら教えてほしいの…。 -- 2015-02-10 (火) 21:37:59
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