水戸城 のバックアップの現在との差分(No.15)
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現実の城情報水戸城は建久年間(1190~1199)に築城されたと推定されている。築城者は、馬場資幹である。旧名である馬場城の名は、当時あった水戸明神の馬場に城を築いたためと言われている。馬場氏は、常陸国の有力御家人であった大掾氏の支族であり、平将門を藤原秀郷とともに討ち取った平貞盛の弟繁盛に端を発する一族である。のち、馬場氏は大掾氏の本家を継ぐが、大掾家の本家は石岡の府中城に起居し、水戸城は支城として、北方の抑えとなった。 大掾氏の満幹は上杉禅秀の乱(応永23年、1416)で、上杉方に味方したためにに勢力を失い、鹿島神宮の祭祀のために水戸城が留守になった応永33年(1426)6月23日に、河和田城主江戸通房に精鋭18人をもって急襲され、水戸城は江戸氏のものとなる。以後、小田原征伐(天正18年、1590)に参加しなかったことにより、佐竹氏に攻略されるまで約164年間、江戸氏の本城となった。なお、このころの縄張りは、現在の本丸及び、下の丸を二の丸として、大手門を北に開いたものであったという。現在は、このころの遺構は残っていないが、徳川時代までは橋や門の一部に残っていたようである。 佐竹氏が常陸の大名として豊臣秀吉に21万貫を安堵されると、佐竹義宣は江戸重道に天正18年8月、水戸城の明け渡しを要求したが、江戸重道が拒否したため、同年12月に佐竹義重、義宣父子は水戸城を2方から攻撃、攻略した。攻略後、常陸経略のために佐竹義宣は本城を太田城から水戸城に移し、経営に着手する。この際に、水戸城も文禄元年(1592)から慶長7年(1602)にかけて拡張された。 しかし、関ヶ原の合戦で佐竹氏は積極的に徳川家康に味方しなかったとして、慶長7年7月秋田久保田に転封となり、同年11月には徳川家康5男武田信吉が水戸15万石の領主となったが、翌年9月に逝去し、11月に家康10男の徳川頼宣が入部する。頼宣は慶長14年(1609)年、駿河に転封となり、替って11男の徳川頼房が25万石で入城、以後水戸徳川家の血統は絶えることなく幕末まで続く。 徳川時代に水戸城の施設は何度か建築、修繕されており、寛永2年(1625)には大手橋、寛永5年(1628)には御三階櫓、帯郭、郭門等が造られ、寛永15年(1638)には堀普請、下って天保12年(1841)には弘道館ができている。また、享保18年(1733)、延享3年(1746)に門が修繕されている記録が残る。御三階櫓が銅板葺になったのは享保9年(1724)という。(それまでは茅葺) しかし、明治維新の際に弘道館戦争(明治元年、1868)で多くを焼失、明治5年(1872)の水戸城放火事件で藩庁が焼失し、残った建物も、御三階櫓を含め昭和20年(1945)の水戸空襲で多くを焼失したため、現存する遺構は下記のとおりである。 地形としては、水戸台地の東端部に造られた連郭式の平山城で、現在の地形と違い、千波湖が現常磐線を覆うように那珂川付近まで伸びていたため、三方を崖と水に囲まれ、開口部は西側にしかない堅城であったとされる。現在は、旧本丸及び下の丸に水戸一高、旧二の丸に水戸三高、水戸二中、茨城大学附属小があり、三の丸には茨城県立図書館や水戸市役所・茨城県庁の出先機関等が建てられている。 なお、水戸黄門(徳川光圀)が世直し諸国漫遊を行うというものは、幕末期に講談によって広まったものである。徳川光圀は当時から名君の誉れ高く、亡くなった時に「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」と謳われるほどであったという。諸国漫遊のモデルには、歴史書『大日本史』(明暦3年、1657編纂開始~明治39年、1906完成)の編纂の資料収集のために、諸国に学者を派遣したことが背景となっている。助さん(佐々木助三郎)、格さん(渥美格之進)のモデルは、『大日本史』を編纂していた部署である彰考館の総裁であった佐々介三郎宗淳、安積覚兵衛覚の2人である。
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