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2014年12月22日実装
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原城(はらじょう)は、長崎県南島原市南有馬町乙にあった。 元和の一国一城令で廃城となった原城は、1637年(寛永14年)に全国の耳目を集めることとなった。世に言う「島原の乱」が勃発したのである。島原藩主の松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もった。 小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織立った籠城戦を展開して幕府軍と戦闘を繰り広げた。 一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに1638年4月11日から12日(寛永15年2月27日から28日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させた。一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。この時の様子を、幕府軍の総大将であった松平信綱の子・松平輝綱(武蔵川越藩の第2代藩主)は『島原天草日記』の中において「(前略)剰つさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」などと記し、一揆軍は殉教を重んずるキリシタンの信仰ゆえに全員が喜んで死を受け入れたとする旨を語っている。
乱の終結後、幕府軍は原城を徹底的に破壊し、殺された一揆軍3万7千人の遺体は廃墟となった原城の敷地内にまとめて埋められた。その一方で、島原藩主の松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられたと伝えられる。 [引用:Wikipedia]
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