雑学 のバックアップ(No.12)
いろいろな雑学を披露できる場です。 たとえば・・・ 疑問に答えてくれる人が現れることを期待して待ちましょう。 各城・各装備に関する個別的な雑学は城娘の個別ページでお願いします。 武具について平安時代に弓の名手で知られた源為朝は、弓を支える左手が矢を引き絞る右手より12センチ長かったとも言われます。近藤好和氏の一連の著作によると、鎌倉時代までは騎馬武者はもっぱら弓矢で戦っていて、対抗策として馬を先に攻撃されるようになったので、南北朝のころから馬を降りて射撃したり、刀槍で戦ったりするようになったのだそうです。 だから馬上で使う長い太刀は、室町時代以降に一般的になる短めで徒歩戦闘用の打刀に比べると、兵器として実際に使うことは少なかったかもしれません。江戸期には「定寸」といって刀の標準的な長さがあり、地方や流儀で多少の差があるようですが2尺3寸~2尺3寸5分(69~70cm)でした。幕末動乱期には長い刀を実戦で試す武士もいて、やはりうまくいかなかったようです。 「三池光世」という刀を開発できますが、これは「正宗」「村正」のように刀工の名前です。先祖が徳川家康から拝領した、葵の紋入りの「三池典太光世」を佩(は)いて活躍するのは、『古着屋総兵衛影始末』シリーズの主人公、大黒屋総兵衛。他にも有名な刀の名前がそのまま使われているものがありますね。 脇差はもともと本差と対になった言葉で、1本だけ持っていて「脇」差も何もないものですが、江戸時代には武士以外でも護身用の短い刀は所持を許されたためこれらを差して呼ぶことがあり、「脇差」「小太刀」といった言葉の厳密な使い分けは難しいようです。江戸時代に庶民が所持を許されるのは2尺(60cm)未満が目安で、この長さぎりぎりを狙ったものを長脇差と言い、博徒の典型的な持ち物でした。 太刀や打刀(本差)は両手刀です。ですから片手持ちの小太刀で斬撃を受け止めると力負けします。上記の事情で小太刀での戦闘も江戸時代には研究され、道場もあったのですが、斬撃は受け流し(左から斬りつけられたら、受け止めながら右へステップ)刺突のチャンスをうかがうという、ちょっとスポーツにしづらい動きが基本でした。とはいえ現在でも、全日本銃剣道連盟が短剣道の大会を主催しています。 「一族郎党」という言葉がありますが、領地を持つ武士が一族と奉公人のチームを連れて参戦してくるときは、その中に騎兵と歩兵が混じりあうことになります。大名の権力・財力が増し、大名の雇う足軽部隊が集団戦闘をするようになったのが戦国期の新たな動きで、長柄槍はその代表的な武器でした。長柄槍をひとりで構えても、ふところに飛び込まれればなすすべもありませんが、集団で穂先を上げ下げされると近づくのは容易ではありません。 城について城を建てる目的例えばコミックス『センゴク一統記』には賤ヶ岳の戦いで両軍が小さな砦を築き合った様子が描かれています。重要な地域を制圧するための城がある一方で、当面の敵と戦う最前線としてだけ価値のある城もありました。墨俣城の実相がどうだったのかは論争がありますが、美濃の斉藤氏が滅亡してしまえば、織田氏にとってここに砦を構える価値は下がってしまったでしょう。逆に備中高松城は毛利氏領の東側にいた同盟者が次々に織田氏についたため、毛利氏の東部防衛ラインに乗ってしまった城です。 備中高松城は攻めにくい要害の地にありますが、だいたいそうした場所は城下町を発達させにくい不便なところです。統治の拠点としては交通・通商の要衝であるほうがよいわけで、北近江をもらった羽柴秀吉が小谷城を使わず長浜城に拠ったのは有名です。江戸城も徳川家康がもらった関八州ではそうした性格の土地ですね。 城は何よりも軍事拠点ですが、将兵が生活する場でもあります。だからしばしば「水の手」が攻防の焦点となり、飲料水を絶たれた城は戦闘力をも失ってしまったのです。逆に兵糧と水があれば、包囲を打ち破れない劣勢な兵力でも、籠城することで救援や有利な情勢変化を待ったり、敵戦力を引き付けて他の場所で友軍を有利にしたりすることはできました。 京都(山城)までを確保した織田氏が丹波や播磨に進出し、はるか西方にいる毛利氏との争いが始まったころでした。すでに尼子氏の月山富田城は毛利氏に落とされており、遺臣たちは織田氏の応援を受けてこの争いに加わっていましたし、石山城の宇喜多氏、三木城の別所氏、鳥取城・鹿野城の山名氏は両者に挟まれてしばしば陣営を変えていました。三木城や鳥取城の籠城戦は、織田氏側が優勢な兵力を送り込む一方で籠城側の兵糧確保が焦点となる展開となりました。城攻めと言いながら、周囲にあった支城を落として兵糧運搬ルートを絶つ地域制圧戦が大きな比重を持っていたわけですが、主城を落として抵抗をやめさせなければ地域制圧が完成しないということでもありました。 城の変遷 当初、城は山城が主流でした。あまり手を施さなくても防衛に適していたからです。 城の防衛設備 第一次大戦(1914-1918)では、丘・尾根の上をわざと手薄にして、敵が丘を越えたところを丘の下から一斉射撃する戦法がありました。これは火砲の性能(弾丸の速度など)が上がっていたからできたことで、戦国期の鉄砲では高いところから打ち下ろす方が圧倒的に有利でした。新府城の台詞にある「出構え」のように、高いところを築造・確保してカバーしあうと攻めにくい拠点になりました。なるべく(高いところから)撃てるチャンスを大きくするように、城門への道は曲がりくねったものになり、城門への直接射撃をはばむよう壁が配置されたりしました。 こういった防衛設計は戦国時代後期の城に多く取り入れられ、特に熊本城は明治時代の西南戦争でその有用性を実証しました。 また、高いところが有利なら敵は登ろうとしますから、石積みをぴっちりと崩れにくくし、また垂直に近づけるよう努力しました。 秘密の抜け穴についてはっきりわかっている城はそれほどありません。なにしろ秘密なので仕方がないですね。江戸城から抜け穴を通って西へ抜け、甲府城に向けて逃げる将軍のための時間稼ぎとして、新宿・百人町の鉄砲同心などが配置されていたのだという説がよく歴史雑誌に紹介されています。秘密ですよ。 政治について官位奈良時代・平安時代に朝廷が中央政府として機能していたころ、現在の日本政府にいろいろな部署があり官僚たちが勤めているように、朝廷の役人にも部署や地位・階級がありました。年2回の定期異動である除目は貴族の大きな関心事でした。宮廷貴族が武士を手なづけるために、また地方での実務を任せるために貴族としての官位を与えていたのが、戦国期になると朝廷・有力貴族に献金して官位をもらったり、勝手に名乗ったりするようになりました。 例えば織田信長の一族は代々当主が「弾正忠」(従六位)を名乗っていましたが、もともとあまり全国レベルで有力な家ではないので、勝手に名乗っていたのでしょう。足利義昭と一緒に上洛したとき、織田信長は弾正少忠の正式な補任を受け、最終的には正二位右大臣・右近衛大将まで進みました(死ぬ前にそれらを辞し、死んでからさらに追贈がありましたが)。三河国に任ぜられる朝廷官吏の最高位者である三河守の官位を、徳川家康は朝廷から正式に受けましたが、それはちょうど今川家の勢力を三河から追い出したタイミングでした。このように官位の有無は実際の争いにも影響するものでした。 興味のある人は、Wikipediaで「少弐氏」「武家官位」の項を読んでみるといいでしょう。 「官位」の官は官職、位は位階です。このふたつはだいたい対応関係が決まっていて、朝廷での位階が上がると相応の官職につきましたが、急速に出世したときなど対応が崩れることがありました。ゲームに登場する侍従は従五位下、近衛少将は正五位下が原則でした。足利義昭とともに上洛した織田信長が最初にもらった位階が従五位下、柴田勝家を倒し徳川家康を破った羽柴秀吉がやはり従五位下から官位を始めています。 儀式や伺候のために皇居・清涼殿に上がることを許される前提条件が、五位以上の官位を持っていることでした。「殿上人」としてのステータスが戦国大名には重要だったのでしょう。 五畿七道五畿七道とは日本の8つの地域を総称で区分けは以下のとおりです。 畿内:現在の近畿地方中部、山城・大和・河内・和泉(757年に河内から分離)・摂津 *西海道・南海道が「逆じゃね?」と感じた貴方 令制国(律令国)尾張国には8つの郡があり、織田信長の時代にはふたつの織田家が4郡ずつを支配していて、織田信長の家はその一方のそのまた家臣という立場でした。信長は親族と争って次々に倒し、尾張全体を支配するようになりますが、こうした「国-郡」は大宝律令などによって定められた統治の仕組み、つまり律令制の一部です。それ以前から「国」という言葉はあったのですが、国や郡の構成が律令によってルールとして決まり、以後長いこと変更されなかったので、令制国(律令国)と呼ばれています。よく国の数を「六十余州」と表現しますが、そのように境界が固定されたわけです。 郡の役人である郡司はそれぞれその地方に住んで世襲、国の役人である国司は中央から派遣というのが律令制度に基づく統治のコンセプトでした。もともと国司のもとに軍団があったのですが、中央からは源氏、平家と言った貴族系の武士団(武家貴族)があらわれ、国司の最高位者である守(ただし親王任国である常陸、上野、上総は守もあるが名目上親王が守を勤めているため実質介が最高位者であるが決して守がないわけではない)としていろいろな国に赴任し、地方の武士団と関係を結んで、武士が兵権を握るとともに、すっかり貴族から分かれてしまいました。 鎌倉幕府以降、幕府はそれぞれの国に国司とは別に武士から守護を任命し、戦国大名の中には守護やその下の守護代から興った家がたくさんあります。さすがに戦国期になってから国司が武力をたくわえて大名化した例は事実上ありませんが、飛騨の姉小路家は「代々国司をつとめた貴族の家系が武士に乗っ取られた」珍しい戦国大名です。 一揆 武家が団結して集団行為をすることである。(EUを想像するとわかりやすいかもしれない。) 有名なものは加賀一向一揆や長嶋一向一揆、毛利氏を中心とした安芸国人一揆がある。 コメント |
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