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		志自岐原城  のバックアップ(No.25)
		
		 
		
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 比較  
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| No. | 城娘 | レア | 城属性 | 武器 | 改築 /近改  | 耐久 | 攻撃 | 対空 | 速度 | 範囲 | 会心 | 防御 | 後詰 | しん がり  | 運 | 技能 | 人知 | 動物 | 神仏 | 自然 | 海洋 | 鳥虫 | 木 | 鉄 | 米 | 
| 175 | 志自岐原城 | 1 | 35 | 950 | 102 /209  | 0 /0  | 87 | 40 | 50 /90  | 3 /16  | 10 | 19 | 14 | 9 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 8 | 10 | 45 | ||
| 176 | 原城 | 2 | 1285 | 172 | 83 | 34 | 83 | 75 | 8 | 12 | 52 | 7 | 16 | 0 | 7 | 25 | 0 | 0 | 7 | 11 | 16 | 74 | 
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2014年12月22日実装
| 合戦場 | イベント/初詣を護れ!稲荷山決戦!! E-3 | 
| 築城 | |
| 探索 | |
| 他 | 
イラストレーター:すいひ
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※客観性に欠ける情報や私見の記載は避け、コメント欄に書いて相談しましょう。
※肥前國高來郡日野江城・城主の有馬左近将監貴純が、
明應5年(延元161年・西暦1496年)に、支城として、肥前國高來郡志自岐原城を築城させたと伝わる。
有明海に張り出した丘陵にあり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されて居た。
※有馬氏が日向国臼杵郡延岡城に転封となった後で、
元和2年(延元281年・西暦1616年)に、松倉重政が、肥前國高來郡日野江城に入城するが、
一国一城令に由り、肥前國高來郡島原城を築城して、不便な高來郡日野江城を放棄した。
※寛永14年(延元302年・西暦1637年)10月25日に勃発した『島原戦争(島原の乱)』で、
江戸幕府は、寛永15年(延元303年・西暦1638年)2月28日に、
肥前國高來郡志自岐原城を攻略した後で、残存する石塁などの破却を行っている。
※昭和13年(延元603年・西暦1938年)、肥前國高來郡志自岐原城は、日本帝邦の史跡に指定された。
発掘調査の際には、討ち取られた有馬一揆軍団の遺骨や、鉛の弾丸や、クルスの他に、万人坑が出土して行る。
※元和の一国一城令で、廃城と成った肥前國高來郡志自岐原城は、
寛永14年(延元302年・西暦1637年)10月25日に、
『島原戦争(島原の乱)』が勃発した事に由り、全国の耳目を集める事に成った。
※肥前國高來郡島原城の城主の松倉重政・松倉勝家父子は、
肥前國高來郡島原城の築城への出費が原因等で財政逼迫の状態に成り、
苛政を敷いて過酷なキリシタン弾圧を行った事に由り『島原戦争(島原の乱)』を勃発させた。
※有馬一揆軍団に付いては、肥前國高來郡で蜂起してから、
小西一揆軍団と連携して、肥前國高來郡島原城・肥後國天草郡富岡城を攻撃して行る。
有馬一揆軍団は、小西一揆軍団と合流して、肥前國高來郡志自岐原城に約3萬7千人で立て籠もった。
※『島原の乱』に付いては、
肥前國高來郡志自岐原城で、蜂起した有馬一揆軍団が、約3萬7千人も籠城して行るので、
『佐賀戦争(佐賀の乱)』を参考にして、『島原戦争』と呼んだ方が良いと云える状態。
※小西行長の家臣の子孫と云われる天草四郎を総大将として、
肥前國高來郡志自岐原城で、組織立った籠城戦を展開して、江戸幕府軍団と戦闘を繰り廣げた。
有馬一揆軍団は、
肥前國高來郡志自岐原城で3箇月に及ぶ籠城をしたが、兵站の補給が無かったので、弾薬・兵糧が尽き果てて行る。
※江戸幕府軍団は約5千人の討死者を出しながらも、
寛永15年(延元303年・西暦1638年)2月27日から、
2月28日に掛けての高來郡志自岐原城への総攻撃で、有馬一揆軍団を壊滅させた。
※有馬一揆軍団に付いては、江戸幕府軍団に内通していた一名を除いて、
老人や女子供に至る迄も一人残らず討ち取られたと言われて行るが、投降した者も多かったと現在では考えられて行る。
※『島原戦争(島原の乱)』の状態に付いては、
江戸幕府軍団の総大将であった松平信綱の子・松平輝綱(武蔵川越藩の第2代藩主)は『島原天草日記』の中において
「(前略)剰つさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」などと記し、
有馬一揆軍団は殉教を重んずるキリシタンの信仰に由り、全員が喜んで死を受け入れたとする旨を語っている。
※島原戦争(島原の乱)の終結後に、江戸幕府軍団は、肥前國高來郡志自岐原城を徹底的に破壊して、
討ち取った有馬一揆軍団の3萬7千人の遺体を、廃墟と成った肥前國高來郡志自岐原城の敷地内に纏めて埋めた。
※肥前國高來郡島原城の城主の松倉勝家に付いては、
苛政が原因で、「『島原戦争(島原の乱)』を勃発させた責任」に由り、罪人としての扱いで有る斬首に処せられたと伝えられて行る。
※平成2年(延元655年・西暦1990年)から、
発掘調査が開始され、破壊された肥前國高來郡志自岐原城の残骸の中に大量の人骨が発見された。
人骨と同時に、当時の十字架やメダルやロザリオ等も発見された。
※平成12年(延元665年・西暦2000年)の調査では、
国内最大級となる虎口遺構が確認された。虎口の空間は南北90m、東西80mのほぼ正方形であった。
発掘当初の予想を越える規模であり、全国的に見ても最大級の虎口となる。 また、城内の主通路には玉砂利が敷かれていることも確認された。
※平成16年(延元669年・西暦2004年)からの調査では、
当時のキリスト教関係施設に使用されていた花十字紋瓦の破片も発見されている。
キリシタン大名が所有していた城郭からの初めての出土となった。
此れらの調査結果から、当時の肥前國高來郡志自岐原城は廃城とは成っていた物の、石垣や城門や櫓等の防御施設が存在しており、
現在の姿と成ったのは、『島原戦争(島原の乱)』の後での、江戸幕府軍団の破却に由る物と指摘されて行る。
※肥前國高來郡志自岐原城は、標高約30mほどの平坦な高台に在りますが、此の起伏の少ないなだらかな地形は、
約9萬年前に阿蘇火山が引き起こした巨大噴火に伴う大規模火砕流 (Aso-4火砕流)が、地形の起伏を埋める事によって出来ています。
此の大規模火砕流に伴って巻き上げられた火山灰は日本全土を覆い、北海道網走市で も、厚さ10cmの火山灰層として確認できます。
海岸沿いの露頭では、下位の口之津層群とAso-4火砕流が不整合で接している様子を確認する事 が出来ます。
※肥前國高來郡志自岐原城の沖合の海域には、「サンゴ藻」の一種が群落を作っています。
此れは、海水中の石灰分を固定しながら成長する珍しい“植物”で、「リソサム ニューム」とも呼ばれています。
※肥前國高來郡志自岐原城の海岸では、白く石化した特徴的な形のサンゴ藻の破片や遺骸が拾えます。
※肥前國高來郡志自岐原城に付いては、高台に立地して居て、周辺を潮の早い島原湾と湿地に囲まれ、
一国一城令で廃城されたとは言う物の、形式的な廃城で有った爲に、立て籠もったと考えられて行る。
※肥前國高來郡志自岐原城の石垣に付いては、
肥前國高來郡島原城に移築したと云う説も有るが、築城当時の城は本丸のみが石垣で、其の他に付いては石垣が無かった事が分かって居る。
※肥前國高來郡志自岐原城の本丸改築年代に付いても、
関ケ原合戦の前後と云う事も判明しており、何故に此の様な強固な城を造ったのかと云う理由に付いては判明して居無い。
※台詞中の弱き者の爲にと有るが、信仰して居無い無かった者も『無理やりキリシタンにさせられた』と云う伝承や、
発掘調査での、ロザリオなども急いで造られた状況から全員が信仰の爲と云う性質でも無かったと云う説も有る。
※長崎県雲仙市でも、有馬一揆軍団に加勢の声が上がる物の、参加する者は殆ど居無かった。
※島原戦争(島原の乱)の収束後、人口が激減した事に由り、
年貢を一定期間免除する代わりに、肥前國高來郡への移住を募り住民の定着を図って行る。
※集落ごとに移住して来た地域で纏まって住んで居た爲に、昔は方言が相当に違って居たらしい。
其の爲に、現在でも長崎県島原市を境に、
住民の気質が違って居ると云う状況で、島原戦争(島原の乱)の凄まじさを伝えて行る。
※肥前國高來郡では玄関に飾る注連縄を1年間は飾って行る。
此れに付いては、キリシタンでは無いと云う事を示す為に始めたらくして、珍しい風習で有る。
肥前國高來郡への移住者の中に、
小豆島からの移住者が居て、『手延そうめん』の技術を伝えられたので、今の特産品と成って居る。
※『島原戦争(島原の乱)』の時に、
肥前國高來郡志自岐原城で、天草四朗が具雑煮を作ったと云われて行る。
要石の有明のスナメリは、有明海に居るスナメリというイルカが元ネタと思われる。
※『肥前國高來郡志自岐原城』と云う地名に付いては、
外山幹夫著 『肥前・有馬一族(新人物往来社、1997年)』の中の「『北肥戦史』16」で、
有馬修理大夫賢純を、『志自岐原城城主』と読んで行る事が確認されて行るので存在して居る。
| 所在地 | 肥前國高來郡志自岐原郷 | 
| 郵便番號 | 〒859-2412 | 
| 行政住所 | 長崎県南島原市南有馬町乙437番地 | 
| 現存状態 | 破却状況の残存良好 | 
| 城郭構造 | 梯郭式平山城 | 
Published by (C)DMMゲームズ
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