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鳥羽城 のバックアップ(No.25)
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ボイス
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| 築城 | |
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| 他 |
イラストレーター:小鳥遊啓
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鳥羽城(とばじょう)は、志摩国答志郡鳥羽(現在の三重県鳥羽市鳥羽)にあった日本の城。鳥羽藩の藩庁が置かれた。
水軍の城で、大手門が海側へ突出して築かれたため、鳥羽の浮城、また、城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、二色城、錦城とも呼ばれる。
鳥羽城があった桶の山(志摩国答志郡鳥羽)の鳥羽湾に突出した部分には中世、橘氏の居館があった。文禄3年(1594年)当時、豊臣秀吉の家臣であった九鬼嘉隆がその跡地に築城した。
九鬼家3代、内藤家3代、天領、土井家1代、大給(松平)家1代、板倉家1代、戸田(松平)1代と目まぐるしく城主が代わり、享保10年(1725年)以降に稲垣家8代で漸く定着した。
安政元年(1854年)に地震により城内天守以下の建物が倒壊し、修理を加えないまま、明治4年(1871年)に度会県が置県され同年に払い下げられ破却された。
現在の鳥羽水族館の裏手にある低い丘が鳥羽城である。本丸跡は市立鳥羽小学校[1]の運動場となっていた。
山麓北側の武家屋敷跡には市役所・城山公園・旧鳥羽幼稚園などが造られ、遺構は本丸と旧家老屋敷の石垣が残っている。
昭和40年(1965年)12月には、三重県史跡に指定されている。
ちなみに1633年は九鬼氏が国替えによって鳥羽を離れ、内藤忠重が城主となり、鳥羽城の二の丸、三の丸を構えた年である
| 所在地 | 三重県鳥羽市鳥羽 |
| 現存状態 | 石垣 |
| 城郭構造 | 平山城・海城 |
、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。九鬼水軍を率いた水軍武将であり、九鬼氏の第8代当主である。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、3万5,000石の禄を得た。
こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した
天正13年(1585年)には従五位下・大隅守に叙位・任官する。そして答志郡鳥羽(鳥羽市鳥羽)の地を本拠地と定め、鳥羽城の築城に着手した。
天正20年(1592年)から始まった文禄・慶長の役では、5月から6月にかけて李舜臣率いる朝鮮水軍の攻撃により釜山西方に展開していた水陸諸隊の被害が増えたため、
7月になって脇坂安治・加藤嘉明・九鬼嘉隆の3大名が水軍を編成して対抗することとなった。しかし脇坂安治が抜け駆けを行って閑山島海戦で敗北し、
またそれを追って出動した嘉隆と加藤嘉明も安骨浦で李舜臣の攻撃を受けて撤退した。このとき嘉隆は日本丸に座乗し、帆柱が折れるなどの被害を出しつつも攻撃を凌ぎ、
夜間の脱出に成功した。これらの敗戦により秀吉は戦術転換の命令を下し、出撃しての海戦を避けて陸海共同での沿岸防備を行った。
その結果、九鬼を含む日本の水軍は朝鮮水軍の攻撃を何度となく撃退し(釜山浦海戦、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)、朝鮮水軍の積極的な活動は激減した。
嘉隆は慶長の役には出陣せず、慶長2年(1597年)に家督を子の九鬼守隆に譲って隠居した
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると嘉隆は西軍に与し、守隆は東軍に与した。これはどちらが敗れても家名を存続させるための嘉隆の戦略だったという。
嘉隆は守隆が徳川家康に従って会津征伐に赴いている間に、堀内氏善らと共に守備が手薄になっていた鳥羽城を奪取。伊勢湾の海上封鎖を行い、
8月24日の安濃津城の戦いの勝利に貢献するが、9月15日の本戦で西軍が壊滅すると、鳥羽城を放棄して答志島に逃亡した。
守隆は徳川家康と会見して父の助命を嘆願し、守隆の功績の大きさが考慮され了承されたが、守隆の急使がそれを嘉隆に伝える前に、
九鬼家の行く末を案じた家臣の豊田五郎右衛門が独断で嘉隆に切腹するよう促し、これを受け入れた嘉隆は10月12日に和具の洞仙庵(どうせんあん)で自害した。享年59。
嘉隆の首級は首実検のために家康のいる伏見城に送られたが、その途中で伊勢明星において守隆の急使により確認される。
守隆は激怒して豊田を斬首した。首級は伏見城に運ばれたため、守隆により胴体のみが洞仙庵近くに葬られ、胴塚が建てられた。
首級は実検の後に答志島へ戻り、胴体とは別に築上(つかげ)山頂に葬られ、首塚が建てられた。現存する胴塚は守隆が建てたままではなく、寛文9年(1669年)に孫の九鬼隆季が再建したものである。
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