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天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、天正8年(1580年)に顕如が明け渡し、その直後に焼亡した。 寺地は上町台地の北端にある小高い丘だった。その北で淀川と旧大和川が合流しており、その付近にあった渡辺津は、淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉・紀伊と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でもあった。台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」、後に「大坂」と呼ばれたという。同寺建立以前は、古墳であったとも言われ、生国魂神社の境内であったともいわれている。同神社は太古からの神社であるため、この地が太古の磐座であったとの説もある。なお、同神社は後の大坂築城の際に上町台地西麓の現在地へ遷座されている。 石山本願寺は、堀、塀、土居などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していき、次第に城郭化していったと考えられている。そうしていくうち、いつの日からか「摂州第一の名城」と言われるほどになり、石山本願寺城とも呼ばれるようになった。実際、石山合戦では織田信長を相手に、足掛け10年間も戦うことができた。特に3度目の戦いの第二次木津川口の戦い以降、天正6年(1578年)から天正8年(1580年)までの約1年半に渡り、ほぼ無補給で耐え続けた事は、日本史上ほかに類が無く、特筆に値する。
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