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山形城 のバックアップ(No.8)
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別名を『霞城(かじょう)』『霞ヶ城(かすみがじょう)』と呼ばれる城郭で日本100名城の一つ。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦い真っ只中、直江兼続率いる上杉軍と最上・伊達連合軍の間で長谷堂合戦が起こった。
その際、現山形市街地の西にある富神山の麓の菅沢に陣を構えた上杉勢からは霞がかかってその位置を隠したことに由来する。
最上氏の開祖、斯波兼頼が延文2年(1357)に出羽地方の北朝方として、南朝方の抵抗を抑えるために築城したと伝えられている。
最上氏11代当主義光の代に、関ヶ原合戦の戦功により、57万石の大々名となり、今の山形城の形が作られる。
しかし、義光の孫・家信(義俊)の代に後継者問題、所謂お家騒動が起こり、最上氏は改易。
その後に鳥居忠政が入府し、山形城の本丸・二ノ丸を改築された。なので、現在の二ノ丸跡は、鳥居氏時代の遺構といってよい。
明治維新後は、山形市による陸軍駐屯地誘致により、陸軍第三十二連隊の兵営敷地となった。
その際、城内の櫓などの建造物は破却され、本丸は埋め立てられた。三の丸の堀も埋め立てられ耕作地として利用された。
第二次大戦後、二ノ丸跡外側の住宅地開発が進み、、三の丸の濠も埋め立てられた。
現在は二ノ丸跡内側が霞城公園として開放されており、市が主導で城跡の発掘調査、及び一部建築物の復元作業が行われている。
山形市は、2033年をめどに本丸全体の発掘調査を完了させるとともに、本丸北枡形の復元を完了することを計画しているとの事。
なお、跡地公園内に当時の建造物は残っていないが、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存している。
また、市内八日町宝光院の本堂は、御殿の建物を移築したものと伝えられている。共に国の指定文化財。
余談だが、日露戦争勝利の際、記念して帰還将兵が周囲に桜(ソメイヨシノ)を植樹したことにより、以降桜の名所としても有名である。
| 所在地 | 山形県山形市霞城町 |
| 現存状態 | 二ノ丸塁濠のみ現存 |
| 城郭構造 | 輪郭式平城 |
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