アームストロング砲 のバックアップの現在との差分(No.1)
初期装備城娘開発
その他入手方法
伝来・解説イギリスのウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲の一種 マーチン・フォン・ウォーレンドルフが発明した後装式ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、 大型砲では十分の一にまで短縮された。砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量であった。 このような特徴から、同時代の火砲の中では優れた性能を持っていた。 運用1858年にイギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなどイギリスが誇る新兵器として期待されていた。 しかし、薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載されていた1門が爆発するという事故が起こった。 その原因は装填の為に可動させる砲筒後部に巨大な膨張率を持つ火薬ガスの圧力がかかるため、尾栓が破裂しやすかったことにある。 そのため信頼性は急速に失われ、イギリスでは注文がキャンセルされ生産は打ち切られて過渡期の兵器として消えていった。 廃棄されたアームストロング砲は輸出禁止が解除され、南北戦争中のアメリカへ輸出された。南北戦争が終わると幕末の日本へ売却され、 戊辰戦争で使用された。中でも江戸幕府がトーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注したが、グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。 佐賀藩での製造の有無日本では佐賀藩がこの砲の製造を試みたといわれるが、実際に製造した砲がアームストロング砲と同等のものだったかについては議論が分かれている。 これは、アームストロング砲の製造にはパドル炉、圧延機、加熱炉、蒸気ハンマーなどの大規模な設備が必須であり、 当時のイギリスですら最新最高の設備を持った工場でしか生産できないような物だった。当時の佐賀藩がイギリスに匹敵するほどの設備を持っていたとは考えにくいためである。 精練方に務めていた田中久重の記録によると、鉄製の元込式の6ポンド砲である。福岡日日新聞社の北島磯舟によると、32本の施条が刻まれていたとされる。 コメント |
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