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佐賀城は村中城に近代改築を施すことで入手できるように、村中城に改修を加えた城である。 沖田畷の戦いで「肥前のクマ」と呼ばれていた村中城城主・龍造寺隆信が戦死したのち、家臣の鍋島直茂が実権を握るようになった。 その直茂は村中城の改修計画を考えたが、実際に手をつけたのは長男の鍋島勝茂。 このときに小倉城の天守がかっこよかったので図面を参考に「かっこいい」天守を作り上げたのである。 …が、天守は生憎後述の火災で焼け落ちてしまった。
1874年佐賀城は江藤新平を筆頭とした反乱軍に占領され(佐賀の乱)、このとき建造物はほとんど破壊・焼失されてしまう。 かろうじて生き長らえた鯱の門と続櫓は1953年に佐賀県重要文化財、1957年には国の重要文化財として指定されることになった。 またこの鯱の門であるが、この戦によって受けた弾痕が今も尚生々しく残ってる。 現在の佐賀城跡は佐賀城公園として整備され、周囲には県庁、美術館をはじめ小中高の学校が立ち並び、佐賀県民の生活を見守り続けている。 そして2004年(平成16年)に天保年間完成の本丸御殿を復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館が完成。 館内では幕末・維新期の時に当時の佐賀が如何関わっていたのかを展示物や複製等で分かりやすく、紹介されている。 2006年、日本の100名城の89番に選定された(番号は北から順番に割り振られており、優劣を示すものではない)。
図鑑説明のとおり平坦な土地にある城なので、内部を隠すために木を植えたり攻撃された際には外堀を水没させる仕組みだったりと創意工夫(知略)が施された城だった。 木の中に埋もれている様子や、敵を水没できる仕組みから「沈み城」とも呼ばれている。 そのカモフラージュ用の木々のせいか何度も火災に遭い、1726年にはかっこいい天守を消失、1835年には御殿のある二の丸が全焼する大惨事に遭ってしまう。 焼けて荒れ果てた佐賀城を再建させたのは肥前国佐賀藩第10代藩主、「佐賀の七賢人」の一人、鍋島直正。 彼は軍備強化に力を注ぎ、西洋技術も積極的に取り入れていった。その結果"佐賀藩兵40名ほどが他藩の1000名に匹敵する"とまで言わしめるほどに軍備を成長させた。 また直正は蘭学も積極的に学んでおり、日本から天然痘が根絶できたのは直正が牛痘ワクチンをいち早く輸入・試験を行ったからとも言われている。 佐賀城がしきりに知や軍学のことを口にするのは、その地理的な出で立ちと直正の影響があるのかも知れない。
鍋島氏と猫と言えば、「鍋島化け猫騒動」。 上記の「龍造寺隆信が戦死したのち、家臣の鍋島直茂が実権を握るようになった」ことを発端・元ネタとした御家騒動伝説のことである。 実際は鍋島直茂は龍造寺の霊を沈めるためにお寺を建てた上に実権継承も特に問題はなかったと言われているが、関係者の早死・芝居化された際に当の鍋島氏(鍋島直孝)が上演中止させたために却って炎上・有名になってしまった。 ちなみに鍋島直孝の正妻の名も"クマ"だったりするが、まぁ村中城とは関係はないだろう。
佐賀城の必殺技は「葉隠」の「(武士道と云ふは)死ぬ事と見つけたり」という有名な一文が元。 しかしこの一文の強烈なインパクトからか「武士道は死ぬことで完結するのだ」「武士は死んでナンボ」のような誤解が頻繁に見られる。 しかし捕虜から解放されたときの彼女の台詞「我人、生くることが好きなり(私だって人だ、生きることが好きなのだ)」もまた葉隠の一文であることからもわかるように、これは死を美化する言葉ではない。 「武士道と云ふは…」には続きがあり、その最後は「毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課すべき也。(毎朝毎夕、いつでも死ぬ覚悟があれば一生落ちぶれることなく仕事を全うできるのだ)」で締めくくられるのだ。 放置時には「ボヤ騒ぎ覚悟」で料理の練習をするつもりらしいが、「死ヌ事ト見ツケタ」彼女もきっと死ぬ覚悟で料理をしてくれるであろう。全力で応援してあげよう。
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