志自岐原城 のバックアップの現在との差分(No.11)
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2014年12月22日実装
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イラストレーター:すいひ
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島原半島の南部に位置し、明応5年(1496年)、日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。有明海に張り出した丘陵にあり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていた。
有馬氏が日向国延岡城に転封となった後の、元和2年(1616年)に松倉重政が日野江城に入城するが、一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城した。
寛永14年(1637年)から寛永15年(1638年)にかけての島原の乱の後に、幕府は原城跡に残存する石塁などの破却を行っている。
昭和13年(1938年)、原城跡は国の史跡に指定された。発掘調査の際には、惨殺された一揆軍の遺骨や鉛の弾丸、クルスの他、万人坑が出土している。
元和の一国一城令で廃城となった原城は、1637年(寛永14年)に全国の耳目を集めることとなった。世に言う「島原の乱」が勃発したのである。
島原藩主の松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした
(現在では宗教戦争だったのではという説が有力である)。
この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もった。
小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織立った籠城戦を展開して幕府軍と戦闘を繰り広げた。
一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、
ついに1638年4月11日から12日(寛永15年2月27日から28日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させた。
一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたと言われていたが、投降した者も多かったと現在では考えられている。
この時の様子を、幕府軍の総大将であった松平信綱の子・松平輝綱(武蔵川越藩の第2代藩主)は『島原天草日記』の中において
「(前略)剰つさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」などと記し、
一揆軍は殉教を重んずるキリシタンの信仰ゆえに全員が喜んで死を受け入れたとする旨を語っている。
乱の終結後、幕府軍は原城を徹底的に破壊し、殺された一揆軍3万7千人の遺体は廃墟となった原城の敷地内にまとめて埋められた。
その一方で、島原藩主の松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられたと伝えられる。
平成2年(1990年)から、発掘調査が開始され、破壊された城の残骸の中に大量の人骨が発見された。人骨と同時に当時の十字架やメダル、ロザリオ等も発見された。
平成12年(2000年)の調査では、国内最大級となる虎口遺構が確認された。虎口の空間は南北90m、東西80mのほぼ正方形であった。発掘当初の予想を越える規模であり、全国的に見ても最大級の虎口となる。 また、城内の主通路には玉砂利が敷かれていることも確認された。
平成16年(2004年)からの調査では、当時のキリスト教関係施設に使用されていた花十字紋瓦の破片も発見されている。キリシタン大名が所有していた城郭からの初めての出土となった。
これらの調査結果から、当時の原城は廃城とはなっていたものの石垣や城門、櫓等の防御施設が存在しており、現在の姿となったのは、島原の乱後の破却によるものと指摘されている。
原城跡は標高約30mほどの平坦な高台にありますが、この起伏の少ないなだらかな地形は、約9万年前に阿蘇火山が引き起こした巨大噴火に伴う大規模火砕流 (Aso-4火砕流)が、地形の起伏を埋める事によって出来ています。
この大規模火砕流に伴って巻き上げられた火山灰は日本全土を覆い、北海道網走市で も、厚さ10cmの火山灰層として確認できます。海岸沿いの露頭では、下位の口之津層群とAso-4火砕流が不整合で接している様子を確認する事 が出来ます。
更に、原城の沖合の海域には、「サンゴ藻」の一種が群落を作っています。これは、海水中の石灰分を固定しながら成長する珍しい“植物”で、「リソサム ニューム」とも呼ばれています。原城跡の海岸では、白く石化した、特徴的な形のサンゴ藻の破片や遺骸が拾えます。
高台に立地し、周りを潮の早い島原湾と湿地に囲まれ、一国一城令で廃城されたとは言うものの形式的な廃城であったため立てこもったと考えられている。
なお、石垣を島原城に移築したという説があるが、築城当時の城は本丸のみ石垣でそのほかは石垣が無かったことがわかっている。
また本丸改築年代も関が原前後ということも判明しており、なぜこのような強固な城を作ったのかという理由は判明していない。
台詞中の弱きもののためにとあるが、信仰していなかった者も無理やり編入されたという伝承や、発掘調査でのロザリオなども急ごしらえで作られた状況から全員が信仰のためという性質でもないという説もある。
また、現雲仙市にも一揆に加勢の声が上がるもののほとんど参加するものは居なかった。
乱の収束後、人口が激減したため年貢を一定期間免除する代わりに移住を募り住民の定着を図っている。集落ごとに移住してきた地域でまとまって住んでいたため、方言が昔はかなり違っていたらしい。
そのため現在でも旧島原市を境に住民の気質が違っているという状況で、乱の凄まじさを伝えている。
なお、島原半島では玄関に飾る注連縄をすぐに処分せず一年間飾っている。これはキリシタンではないということを示すために始まったようで、珍しい風習である。
この移住の中に小豆島からの移住者が手延べそうめんの技術を伝え、今の特産品となっている。
この乱の中で、天草四朗が具雑煮を作ったといわれている。
なお、要石の有明のスナメリは、有明海に居るスナメリというイルカが元ネタと思われる。
志自岐原城という名称は、外山幹夫著 『肥前・有馬一族』 (新人物往来社、1997)の中に
『北肥戦史』16で有馬晴純のことを「志自岐原城城主」と読んでいるのが確認されている。
所在地 | 長崎県南島原市南有馬町乙1023 |
現存状態 | 破却状況の残存良好 |
城郭構造 | 梯郭式平山城 |
Published by (C)DMMゲームズ
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