松前城 のバックアップの現在との差分(No.19)
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現実の城情報松前城(まつまえじょう)、別名福山城(ふくやまじょう)。 やむなく拡張・松前城時は嘉永2年(1849)、松前藩17代藩主・松前崇広は幕府から「外国船の出没に備えて津軽海峡の警備を強化せよ」と築城を命じられる。 崇広は新城の設計を当時上野群馬郡・高崎藩から派遣されていた市川一学に一任したところ、「海防の都合上無理がある。庄司山付近に築城すべき」と上申されてしまう。 結局のところ、庄司山に築城する案は松前港の衰退を考慮・予算不足などの経済的理由から却下され、福山館を拡張する方針に落ち着いたのである。 外敵・天候を考慮した設計外国船…具体的には彼女が図鑑説明で言う通り対ロシア船砲撃を想定した城のため、城壁の中に鉄板があるだけでなく虎口~本丸までの通路は侵入を困難にするため複雑・側面から銃撃しやすい構造になっている。 通常の天守の壁は竹の骨組みに壁土を盛るのが定石だが、松前城は中にけやきの板を仕込んで防御力を増加させている。 また極寒の地では粘土瓦が割れやすいため、銅板が屋根に敷かれていたという。 石垣の積み方は彼女のアピールポイント、ニーハイソックスの柄と同じの「亀甲積み」。 実はこの亀甲積みはお洒落な形をしているがゆえに、力の分散が発生するため崩れにくいという、これもまた防御的な設計になっている。 高く積み上げられないという欠点はあるが、「お洒落」の一言で片付けるには惜しい石垣なのである。 真の敵は国の外にあらずそんな外敵を意識した松前城であったが、明治元年(1868)・戊辰戦争の旧幕府軍が五稜郭を制圧した後に、かの土方歳三の軍隊に攻撃されわずか数時間で落城してしまった。 これは市川一学による設計が「敵は搦め手方を突いてこない」ことを前提としたもので、その弱点を土方に見抜かれてしまったためである。 外敵に備えるために変身した彼女も、まさか日本人に攻め落とされるとはつゆほども思っていなかったことであろう… 電灯と毛布にご用心一度は攻め落とされた松前城だが、戊辰戦争が新政府軍の勝利に終わったため彼女は再び松前氏の元に舞い戻った。 開拓使による取り壊しや太平洋戦争がありながらも天守閣は残り続けたが、ある晩に松前町役場からの出火が飛び火して焼け落ちてしまった。 当時の新聞の報道では、「町職員が電灯に毛布をかけてコタツ代わりに」していたのが出火の原因と言われている。 新しいもの大好き 詳しいの先述の松前城城主・松前崇広はいわゆる「西洋通」であり、西洋からの電気機器、写真機、理化学器械などの新しいものにどんどん飛びついていったという。 また、明治維新後の松前氏は色々と不幸がありながらも華族の子爵として列したことがある。 松前城の「趣味が写真」「新しいものが好き」「お洒落が大好き」「欧州の御城に興味津々」なところはそんな「松前氏」の影響だろう。 悪いとは思うけど 止められない松前崇広は外様大名でありながら老中に就任という異例の大出世を果たした。 しかし当時、幕府はアメリカ・イギリス・フランス・オランダに対し兵庫開港・大阪の市場開放を決めていたが、朝廷からの許可がなかなか降りないという息苦しい状態にあった。 しびれを切らした4国は軍艦を率いて兵庫に襲来、兵庫開港を強要してきたため、崇広ともう一人の老中・阿部正外の独断で開港を決定してしまう。 朝廷はこの2名に対し官位を剥奪・謹慎・免職という3コンボを浴びせ、崇広はその数カ月後38歳でこの世を去ってしまったのである。
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