盛岡城 のバックアップの現在との差分(No.14)
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画像イラストレーター:茜屋
現実の城情報利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた 南部利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。 「盛岡城」は南部(盛岡)藩南部氏の居城である。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、 現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。本丸の北側に二の丸が配され、 本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、存城当時は廊下橋(屋根のかかった橋)が架けられていた。 さらにその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配された。 本丸には天守台が築かれたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされた。 後、1842年(天保13年)に12代利済により天守へと改称されている。
生みの親とわんこそばかつて「不来方」と呼ばれていた地を「盛岡」に改めたことから城も名前だけ変えたものだと思われがちであるが、実は不来方城を基礎として出来たお城こそが「盛岡城」である。 しかし「不来方」という土地の呼び方は現代でも岩手県盛岡市を指す雅称(みやびな、おしゃれな呼び方)として残っているので、「雅称・不来方城」として覚えておくのも良いかも知れない。 ちなみに雅称と言えば「白鷺城」と呼ばれる姫路城や、「玉藻城」と呼ばれる香川県の高松城などが有名であろう。 築城主は盛岡藩南部氏の南部信直だが、当時は遥か遠くの京都の地にいたため実際は信直が嫡男である南部利直が築城にあたった。 従って、後に盛岡藩初の初代藩主となる南部利直こそが盛岡城の親と呼べるのかもしれない。 さて、盛岡城がしきりに食べたいと言っている「わんこそば」であるが、これも間接的には南部利直が生みの親であるという説がある。 南部利直がはるばる江戸に向かう最中、花巻城にて食事を所望すると、山海の幸とともに漆器のお椀に入った一口大の蕎麦が出てきたという。 利直が「うまい」と何杯も蕎麦を平らげていった様子から「殿様の召し上がったわんこそば」としてブームになっていったという花巻起源説である。 有名人が食べたものが名物になるのは現代も昔も変わらないのである。 もうひとつの説は、盛岡の地主が祭事に大勢の村人・客人に蕎麦を振る舞う風習である。 もてなす人数が3桁にもなるお祭りのときは蕎麦が伸びてしまうので、小分けして振舞っていたという盛岡起源説である。 捕虜として捕まっていてもわんこそばが食べたい盛岡城にとっては、どちらが起源なのかは大した問題ではないのかも知れない…。 南部氏と様々なお城たちそんな盛岡城の間接的な親である南部信直は様々な城を転々とした経歴がある。 南部家の第24代当主である南部晴政から養子として三戸城に迎えられ、南部家の人間としての道を始めた信直。 「斗星の北天」こと安東愛季を撃退し、武勲を挙げる等の活躍をするが、晴政に実子・晴継が生まれてからは次第に疎まれていくようになる。 信直の実父、石川高信が南部家に攻撃された事実などから信直は身の危険を感じ、刺客から逃れるために剣吉城や根城に身を隠していたことがある。 不来方城の頃に根城のことを「姉さん」と呼び慕っていたのはこれに関係しているのであろう。 信直は朝鮮出兵の際には肥前名護屋城に参陣したこともある。 結局朝鮮に渡航することなく信直は帰国し、その後に盛岡に居城を定めるのだが、これは仙台藩初代藩主・「独眼竜」伊達政宗を警戒した上での選択だったと言われている。 南部氏は武田信玄公で知られる甲斐源氏に仕えており、後三年の役後に現在の青森県に移住したとされている。 江戸時代には国替えも無かったため、数少ない鎌倉時代から同じ領地を治め続けた一族である。(他は島津氏や相馬氏くらい) 最盛期は現在の岩手県中部~青森県全域と秋田県北部という広大な領地を持っており、「三日月の丸くなるまで南部領(南部藩領を巡るには三日月が満月になる8~10日を要する)」と詠まれる程であった。 しかし、中央集権化や国人の家臣化は進まず、結果、大浦(後の津軽)氏の反乱を招き津軽地方を失う。 その後は10万石の安定した基盤を持ち、現在までその血筋は伝わっている。 豊臣秀吉公が天下人となると、南部家も領地を認めてもらう必要があったが、中央から遠い東北にいた南部家は、前田利家公を通じ、認めてもらうことができた。 その恩を忘れないように、ということで南部家では、名前に「利」の字を入れることが多くなったという。 鈍器じゃありません南部鉄器には水沢のものと盛岡のものがある。ここでは当然、盛岡の方を記す。 盛岡の南部鉄器は盛岡城の築城が始まったあたりの鋳物工業を発端としている。かつては盛岡藩からのバックアップを得て発展していった工業であった。 一時は明治維新や二次大戦の影響で衰退を見せた南部鉄器だが、近年では伝統工芸品だけでなく、南部鉄器ならではの工法から生まれる利点を生かした調理器具として再び陽の光を浴びつつある。 特徴的な渋い光沢・落ち着きを見せる黒色の茶釜や鉄瓶が南部鉄器の代表的なイメージであるが、近年はピンクやパープルといった"女の子らしい、可愛い"カラーリングのものも登場している。 一応は鉄器なので頑丈さはお墨付きではあるのだが、当然鈍器として使うのは望ましくはない。 慶長の時代の南部鉄器で名を馳せた小泉家の四代仁左衛門は江戸で大砲の鋳造を学んだそうだが、まぁそのあたりは盛岡城のように"歳相応に落ち着いて"判断しよう。一応18歳未満はプレイできないゲームなので。 コメント最新の20件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示 |
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