蜻蛉切 のバックアップの現在との差分(No.2)
初期装備城娘開発
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伝来・解説天下三名槍と呼ばれた槍の1つ。戦国時代の武将・本多忠勝が愛用した事で知られる 名称の由来は、戦場で槍を立てていたところに飛んできた蜻蛉が当たって二つに切れたことから、その名がついたという。 通常の槍は4.5メートルほどであるが、柄の長さ2丈余(6メートル)であった。しかし、忠勝の晩年には体力の衰えから、 3尺余り柄を短く詰められた。青貝螺鈿細工が施された柄であったと伝わるが、現存していない。 黒糸威胴丸具足(鹿角の兜)と共に本多家に伝わったが、第二次世界大戦時に同家を離れた。愛知県岡崎市の岡崎城内施設にレプリカが展示されている 村正妖刀伝説の真偽徳川美術館に家康が所持していたと思われる村正が現在も所蔵されている。これは尾張徳川家に家康の形見として伝来したもので、 末古刀に良く見られる皆焼の出来である。このことから、徳川美術館は徳川家が村正を嫌ったのは「後世の創作」であると断言している。 しかしながら、この尾張家伝来の村正が健全な皆焼刃の作であるにも関わらず、「疵物で潰し物となるべき」と尾張家の刀剣保存記録(享和年間)には残されており、 時代が下がるにつれて、徳川家でも村正が忌避されていたことは間違いないと考えられる。 村正は徳川領の三河に近い伊勢の刀工であり、三河を始めとする東海地方には村正一派の数が多く、村正一派の刀剣を所持する者は徳川家臣団にも多かった。 三河に移った村正一派を「三河文珠派」と呼ぶ。たとえば徳川四天王の一人、本多忠勝の所持する槍「蜻蛉切」には、村正の一派である藤原正真の銘が残っている。 また、四天王筆頭であった酒井忠次の愛刀(号 猪切)も藤原正真の作である。 なお、広忠の死因は多くの史料では病死とされており、謀叛による暗殺説は岡崎領主古記等の一部の説である。 幕末から維新の頃にかけて書かれた『名将言行録』には、「真田信繁(俗に幸村)は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があり、 さらにそれを家康の孫である徳川光圀が「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と賞賛したという逸話が併記されている。 村正が徳川将軍家に仇なす妖刀であるという伝説は、幕末の頃には完全に定着していたことがわかる。 コメント |
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